渋沢栄一と済生会

2021年08月17日(火曜日)

新一万円札にも描かれ、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一。
今回は、渋沢栄一と済生会とのかかわりについてご紹介します!

新一万円札イメージ
新一万円札イメージ


済生会の創立

 済生会は全国に81病院、診療所や福祉施設をあわせると399施設、約64000人の職員が働く日本最大の社会福祉法人です。
1911(明治44)年、明治天皇は時の総理大臣 桂太郎を召されて、日露戦争後の社会不安のなかで「生活苦で医療を受けることができずに困っている人たちを施薬救療によって救おう」という「済生勅語」を発し、お手元金150万円(当時)を下賜されました。済生会はこの明治天皇の済生勅語に基づき、官民からの寄付金によって設立されました。

済生会本部全景(当時)



済生会にとっての渋沢栄一

 「済生会創立の最大の功労者は故桂公爵、故平田伯爵(平田東助 内務大臣)、故澁澤榮一子爵とである」と1938(昭和13)年1 月の財団機関誌「済生」に法学博士 窪田静太郎が記しています。渋沢は「醵金にはお前が出て一つ尽力してくれ」と桂から頼まれ、「済生会創立当時に桂公が一にも二にも『渋沢さん渋沢さん』と私を大切にしてくだされたことだけは事実である」と後に語るほど済生会の創立には渋沢が不可欠な存在でした。
 渋沢はどんな社会事業が緊急を要するのか調査し、当時の社会情勢において施薬救療が必要であることを痛感していたようで、済生会創立の寄付金募集の世話人として尽力し2 千数百万円を集めました。また、渋沢は渋沢家同族会議において済生会に10 万円の寄付をするために各家に節約するように命じたと言われています。済生会設立直後から20 年間、当会の顧問と評議員を務めました。

渋沢栄一写真



社会事業家としての顔

 窪田は「渋沢の非常に強い慈善心と、ただ人のため国家のために善いことをしたいという渋沢の誠心誠意に人々が喜んで寄付金に応じた。済生会の"施薬救療"を大成するのに必要な資源を民間から集め基礎を確立したのは渋沢子爵の力によるものである。世界広しとも救療事業のためにロックェラーやカーネギーのように一個人ではなく多数の同志者が一度に数千万円の醵出した例はない」と記し、渋沢の社会事業活動への向き合い方を「同じ慈善行為を行うにも、世界の賞賛を博したい、優越感を味わいたいという動機がなく、そのような点において渋沢子爵の心境人格はほとんど無類と言ってよかった。善いことでさえあれば自分の思いついたことでも、他人から勧められたことでも同じように力を十二分にいれて、その事業が出来さえすれば同じように結構だと満足されていた」と紹介しています。
 渋沢の「米もすなわち薬のひとつであり、衣類もまた病気の原因になるため、この機会に桂総理大臣をはじめ政府当局者が大いに力を尽くし、また世の資産家たちが出資をすれば、財団法人を組織し貧困者を救済することもできると信じている。万が一、せっかくの尊い思し召しを単に施薬救療のみで止めるにいたるならば、明治天皇の思うところを有効に貫徹しかねるかもしれないだろう」との思いもまた、済生会が創立以来110 年、医療と福祉を全国で展開し続けるための礎となっています。



【参考】
・ 公益財団法人渋沢栄一記念財団ウェブサイト デジタル版「実験論語処世談」(7)/渋沢栄一 4.済生会創立当時の桂公(https://eiichi.shibusawa.or.jp/features/jikkenrongo/JR007004.html
・ 公益財団法人渋沢栄一記念財団ウェブサイト 竜門雑誌 第二七四号・第一八―二二頁 明治四四年三月 恩賜奉答の途(青淵先生)(https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK310009k_text
・ 済生会機関誌「済生」昭和13年1月号「七周忌にあたり故澁澤榮一子爵を憶ふ」窪田静太郎
【画像出典】
・ 澁澤榮一 国立国会図書館ウェブサイトからの転載
・ 新一万円券のイメージ 財務省ウェブサイトhttps://www.mof.go.jp/policy/currency/bill/20190409.html
・ 済生会本部全景 昭和11年12月発行「済生会志」より

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